投稿者:竹田 康子  投稿日:2025/9/3

山のあなたの空遠くさいわい住むとひとのいう (上田 敏 訳)                      

 父31歳・母28歳 ある日突然役所から父に赤紙が来ました。なにはともあれ母方の祖父に連れられ、私、一つ下の弟とバスで京都二条駅へ父を送りに行きました。
 私たち3人は父を残し途中下車しましたが「私もお父さんと行く」と言ったのを覚えています。母は7ヶ月の身重で見送りには行けませんでした。(身重の妻が見送るのは女々しいと言われた時代です)そのまま、父は永久に帰ってきませんでした。
 後に聞くところによると陸軍で暑いあつい・ニューギニア、食料は全くなく餓死したらしいと聞かされました。遺骨は勿論、証拠になるものは何も帰ってきませんでした。母が父と過ごした日々は5年間のみ。それから母の戦争が始まりました。
 母の実家は京都市内の呉服商、恵まれた環境で育った母のそれからは厳しいものになりました。 慣れない父の郷へ空襲を逃れて疎開(京都府京北町)知らない人たち。 持っている着物を農家の人に米と換える、空き地を耕し野菜を作る等々食料を手に入れる事。3人の子育てに必死の生活でした。 
 この一つの山を越えれば・この厳しさがいつか楽になるだろうかーと。

ああ我、人ととめゆきて 涙さしぐみ帰り来ぬ

 気丈夫な母、私は母の涙を見たことが有りません。母は1度私の小学生だった息子(孫)に涙ながらに苦労をした話をした時、我が息子が「おばあちゃんが泣いたら僕も悲しいわ」とおしゃべりしていたのを聞いたことがあります  

山のあなたのなお遠く、さいわい住むとひとのいう

 母はいくつかの厳しい山を越えて、ささやかな幸せを見けることができたのだろうか。
私は毎朝写真の父に、苦労の長い涙の一生60年間を送った母のそばに、ずっと共にいてあげてほしいとお願いしています。

戦争・ 人生を変えてしまう不幸。今まだどこかの場所で悲しい戦いが・・・
悲しむ人が無くなるよう、世界中が平和であって欲しいと願う昨今です。

終戦80年によせて